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2010年01月31日 日曜日

"TALK LIKE SINGING" 赤坂お誕生日編その1

 赤坂ACTシアターでの"TALK LIKE SINGING"凱旋公演を観て参りました。

 NY公演を観た直後は「コレをどう日本へ持って行くんだろう?」と思っていたのですが、蓋を開けてみれば、基本はNY公演と同じ。字幕を入れたのが最大の違いといったところでした。冒頭のDyson博士の台詞で「ここはNY、観客はNewYorker」と無理矢理シチュエーション設定をしてしまい、それで笑いに持っていく、といったところが三谷先生の戦略でしょうか。
 字幕が入ることによる若干の脚本と演出の変更。NYでは基本的に字幕が無いので、日本語が分からないシーンでは英語のネイティブの観客はキャストの表情と演技で感じ取るしかない、という部分があったのに比べ、日本では英語しかない場面はすべてに字幕が入っていましたから、『観客へのハードル』はNYのほうが高くて、比較的日本の観客に甘くなっているのはこれが『日本の文化レベル』なのか、総席数への配慮なのか…。(苦笑)
 また、字幕に関する部分以外にもちょこちょこと手が入ってて、完成度は上がった感じがしました。個人的にはACTシアターの箱の大きさを心配していましたが、意外とそれを感じなかったのはキャストの頑張りの賜物でしょうか。

 慎吾さんに関しては、年が明けてからも頑張って体型と可愛さ(笑)と声量はキープしていらしたようで、ひと安心(笑)。芝居が若干大きく(つーか、大げさに?)なったように感じましたが、それはこなれて余裕が出てきたのか、劇場が大きくなったことで芝居を大きくしないと後ろの席まで伝わらない、という配慮の演出なのでしょうか?でも、その『大きな芝居』がNYで観た『自然な表現』(言いかえれば、大きさが足りないのか?)と異なっていることに個人的には少々正直戸惑ってしまいました。確かに『芝居が大きくなった』ことで観客には伝わりやすくなったんだろうなーと思いました。しかし、『歌でしか表現でこきない』というただでさえフィクションなTarlowの設定が『芝居が大きくなった』ことで一層フィクション度合いが増したように感じたことが個人的には少々残念な気もしたり…。

 (ここからネタバレあり)





 視力には若干問題ありのワタクシ。しかし、NYの800余席の会場ではさすがに双眼鏡を使うことはなかったのですが、赤坂では箱の大きさを言い訳に双眼鏡で『ツボシーン』のTarlowを『ガン観』させてもらいまして…(苦笑)。で、NYでツボ、と書いたシーンは相変わらずツボでしたが、それ以外にも最後にTarlowが歌わずに普通にスピーチするシーンで彼が実際に涙を浮かべているのを双眼鏡越しに目の当たりにしてしまうと、慎吾がこの『超フィクション』な人物設定のTarlowに本当に毎回毎回ちゃんと感情移入しているんだなーと感じて改めて感動しました。
 それに、Nimoy先生との帰り道のデュエットではふたりの距離がだんだん近づくにしたがって、ふたりの表情が軟らかくなっていくところがたまりませんね。手に手を取る瞬間とか、頬を寄せる瞬間とか…見ているこちらも頬が赤らんでくるようです。

 それにしても、NYと東京、客席の反応の違いはかなり興味深かったですね。これはキャスト・スタッフも感じているんだろうなぁと思いますが、客席側のワタシたちもかなり面白く感じました。三谷先生も朝日新聞のコラムで書かれていましたが、笑いのツボ・笑うタイミング(これは字幕によるところが大きそうですが)・感情表現・スタオベのタイミング…文化の違いって面白いね~、と切実に思いました。
 前述のTarlowのラストの普通の語りのスピーチシーンで周りから啜り泣きが聞こえてくるのは日本ならではでしょうし(NYではどちらかと言えば啜り泣きではなく「Oh,No…」っという言葉になった反応)、間違いなく日本人しか分からない笑いどころは『Tarlowの悲惨な生い立ち』が日本人にはジョークだけれどアメリカではシニカルな笑いとして受け入れられないところとか、カエルを捕まえて空気を入れて破裂させるところとではないかな、と思いました。(確かにひと昔前の田舎ではオトコのコはカエルに爆竹入れて破裂させて遊んだりしてるよねぇ?ねぇ??(苦笑))

 東京ではこれで10公演。この後の40公演でどんな化学変化が起こるのか、かーなーり楽しみですっ。

posted by 真琴 at 22:39